エンジニアリングとコミュニケーション

コミュニケーションについて課題を感じる程度におじさんになってきたので思いの丈を垂れ流す。

エンジニアリングとプログラミングの違い

エンジニアとプログラマの違いはなにかということをよく考えた。そして結論がでてずっと同じことを言ってきた。
エンジニアはエンジニアリングができる人だ。プログラマはプログラミングができる人だ。だがエンジニアはプログラム書くが、それよりも重要なのは叶えたいものを現実にする技術をもっていることだ(もの、と書いたけれどものじゃなくてもいい。叶えたいなにかだ。面倒なので今後も「もの」と書く)。そしてそのために必須の能力が、コミュニケーションの能力だと僕は思う。一人の開発者が叶えられることは本当に小さい。分業や役割が必要だ。おなじ専門を持った人たちが集まったとしても、良い議論は生まれるが、よいものは生まれない。ソフトウェアの世界ではこの分業の究極形がある。OSSだ。各々が専門する分野で有用なものをつくり合う。思想を共有する。コードの価値に思想共有というコミュニケーションとしての価値が乗っかったもの、それがOSSだと僕は思う。なのでコミュニケーションができないというのはエンジニアとして致命的な欠陥だと思う。

コミュニケーションを定義したい

「コミュニケーションができない」という判断がある以上、コミュニケーションを定義しなければならない。これが難しいかもしれない。いや、定義は単純である。

ひとつは「相手に意思が伝わること」である。気持ちよく伝える技術があるかどうかは一応のところ関係がない。最悪、とても辛辣で鬱陶しい方法であっても、「伝われば」とりあえずの目標が達成される。
もうひとつは「相手の意思を理解できること」である。傾聴できるかどうかはやはり一応のところ関係がない。最悪、とても無愛想で悪辣で威圧的であっても「理解できれば」とりあえずの目標が達成される。

ではなぜこれが難しいのか。この定義自体が人によってブレてしまうからかもしれない。相手に意思が伝わったと判断する能力が正しく機能しないと、もしくは相手の意志を理解したと言うことを表現できないと、意思交換が成り立たないのだ。僕は相手の意思を理解できたかどうか不安になったときに、言い換えて同じことを言う癖がある。「イヌはネコ目に属する」と言われたら、「ネコ目にはすべてのイヌが属していて、ネコ目以外のイヌはいないと言うことですか?」とか言う。これを嫌う人もたまにいるが、癖なので直せない。意思交換ができたと納得できないと、何度でも言い換えをして訊いてしまう。たまに家族にこれをやって嫌がられることもある。しつこいやつだ。

エンジニアリングコミュニケーションの閉塞感

エンジニアにコミュニケーションが必須なのは上記の通りなのだが、その手順というか、その方法がどうも社会受けが悪い。僕の言い換え質問が家族に嫌がられるのと同じように、社会でもたびたび嫌がられることがある。これはエンジニアという人のコミュニケーションが悪いという話ではなく、エンジニアリングのコミュニケーションに特殊性があるということを言いたい。エンジニアはただ、知りたい。まず知って、事象を整理して、思考したい。それが生きる術だし、そうして自分をパワーアップしてきたという自負があるからだ。また、いま起きていることに無頓着なようにも見られがちなのも悪く働いていそうだ。起きてしまった悪いことに対して、焦りや憤りを表面にださない癖がついている。埋没損失について、よく理解しているからである。

だから、冷静淡々と事象そのものを深く掘ろうとする。傍からみるとそれは、いわゆる叩いているように見えるのかもしれない。ある文化圏には、ミスをしたひとには「まず優しい言葉をかけてあげる」というのがよいコミュニケーションとされているようだ。でもチームとして機能するために、それほど価値を感じないので仕方ない。

叶えたいものを現実にする技術をもつことは、現実を把握することが最重要だからであるし、仮にミスしたのが自分でも欲しいのは優しい言葉ではなく、復旧するための筋道だからだろう。それらが終わった後に、自分のミスを謝罪し、それでもチームのひとりとして受け入れてもらえるようなそういう言葉をひとつでも貰えれば、安心してベッドに入ることができる。こういうコミュニケーション手段が僕には居心地がいいのだけれど、やはりどうしても受けが悪い場面も多い。

なんでだろう

なんでこうなるんだろうと考えていろいろ読んだりした先に、すこしのヒントを得た。実は、コミュニケーションには2つの面がある。ひとつはいままで書いてきた「思想の共有・意志の交換」の手段というもの。もうひとつは「敬意の表現や信頼の獲得」の手段というもの。ミスをした人にまず優しい言葉をかけるというのは、後者からくるものである。心理的安全を与えることで信頼を高めて、目の前の障害に立ち向かおうという手法らしい。誤解を恐れずに言うと、子育てみたいだな、と思った。相手を落ち着かせて、正しい意志を引き出すということは、父親としての僕もやってきたことである。だがその過程がどんな場合のコミュニケーションでも必要だと考えるひとがいるということには思慮がまわらなかった。そうかー。そうだったのかー。

まとめ

まだまとまらない。